望郷の泪は二度流るの記

森を飛び出そうとする今を克明にとらえるドキュメント。

毎日が「おもしろ万年」であればいいのだが・・・・,

 このところ,体内時計のぜんまい仕掛けが壊れているのか,起きる時刻と寝る時刻が一定しない。どうしたものだろうかと,ぼんやりと思っているが,なかなか改善しない。

 

 昨日は,興奮状態が長く続いて,なかなか寝付けず,わずか2~3時間の睡眠で登校した。午前7時30分に研究室に到着。

 

朝の,誰も来ていないうちに始めようと,音読の教材を取り出す。自宅のアパートは,隣人の様子をうかがいながらであるので,なかなか集中できない。けれども,朝の研究室はそうした心配をすることなく音読に励める。日本史の教科書と英単語集をそれぞれ30分ずつ音読。その後,forest第3章を読む。

 

で,その後である。抗いがたい眠気が襲ってくる。歩き回るなどしてなんとか抵抗を試みるが,いかんともせず,結局研究室のソファー(なんでも研究室開設当初からあるらしい)に沈み込む。

 

10時30分ごろ目が覚めた私は,就職課の窓口で,就職相談を申し込む。面接の練習。公務員専門学校の講師試験の対策である。総合職の時は,あの人事院面接でさえ,ノー練習で臨んだ。落ちるのは当然だったと思う。同じ轍を踏まないために,面接の練習を申し込む。

 

大学会館のレストランが貸し切りで休みだったので,移動販売のケバブを購入。人社棟のベンチで食す。

 

その後,TAの職務の一つである,出欠入力一回分(約200人分)を終わらせる。これが後2回分あると思うと気が遠くなるが,仕方がない。お給金をもらうということはそういうことだ。

 

出欠入力をやり終えると,今日一日のやるべきことを終えた感覚に陥る。本当は,研究が残されているのだが,疲れていることもあり,帰宅することに。

 

帰宅後,水道代を払いにコンビニまで行き,その後某スーパーで買い物。

 

今日は最初に音読を持ってきたのが良かった。一番最初に何をやればいいか迷うことなく取りかかれる。明日から早起きして投稿し,音読に励もう。で,早く帰って,早く寝る。そのリズムで行きたい。

哲学!!心理学!!!

 今日はお昼まで寝てしまった。

 起床後,メールをチェック。

 研究会のテーマはあれでよかったようだ。

 13時頃から2時間ほど母と電話。

 

 4時ごろアパートを出て,4時30分頃研究室に着く。

 

 Forestが届いたから,しばらく読んでみる。最近思うのだが,

 英文法って思っていたより難しくないようだ。私の悪い癖だが,

 考えすぎだったようだ。12年前,堅粕の石造りの校舎で,うんうんうなりながら

 英文法の講義を聴いていた自分が何だか信じられない。

 

 その後,図書館で『CBCレポート』の62年分をコピー。

 相変わらず情報量といい,密度といい,非常に濃い。冒頭には加藤秀俊とリースマンの対談が掲載されているのだから,感銘もひとしおである。

 

たいして大学にいたわけではないが,お腹もすいて疲れて来たので,帰宅の途につく。

途中で「一休」に寄る。ここはこの町で有名な豚骨ラーメンの店だが,実は夏季限定の台湾まぜそばがうまい。先週食べて以来,すっかり台湾まぜそばのとりことなった私は,今日も入店するやいなや,台湾まぜそばを注文した。しかし,

 

「平日限定でして・・・・」

 

今日が祝日であることをすっかり忘れていた。そうだ,今日は祝日なのだ。平日も祝日も関係ない,毎日がスペシャルな日々を過ごしていると,本当にスペシャルな日を忘れてしまう。で,今日は普通の味玉ラーメンを食することに。旨い。満足して店を出る。

 

19時ごろ帰宅。で,今に至る。

 

 

 

 

 

 

 

再度のタイトル変更

更新が昨年の12月以来となっていたことに今更ながら驚いている。

社会学関連のブログをということで立ち上げたものの,何を書いていいかわからず,そのままになっていたのであった。

 

そこで,再びブログを改題し,身辺雑記等を記録するブログとして新たにリニューアルすることにした。

 

気が向いたら更新するつもりなので,ご笑覧頂ければ幸いです。

 

 

「読み」のオリジナル,オリジナルの「読み」

 社会学への熱意がよみがえって,はや3か月。無事に研究会報告を終え,また読書と思索(という名の妄想)の日々を開始した。
 面白いことに,3年前,モノクロームに見えたテクストが,何だか極彩色をまとって現れ出たような気分である。今日は荻野昌弘という有名な社会学者の文章を読んでいた。「身体の記憶」というテーマで,本ブログに「社会学的文学誌」を載せるためである。

 3年前と比べ,荻野の言っていることがはっきりとわかるようになった。これまでの蓄積もあるのだろうが,やはり,社会学への姿勢が主体的になったというのもあろう。

 それ以上に,テクスト(とりわけ社会学の名著)への姿勢というか,読み方。これも大いに触発を受けた。

 それは,読みに独自の角度を持つこと。荻野は身体論をテーマに分析を進める学者であるけども,デュルケームウェーバーを,やはり身体という側面から読んでいた。その結果,対比して捉えられる両者が,実は身体を通して社会を説明・記述しようとしたことがわかったのだ。

 ここで,重要なことは,独自の読みの角度を持つことが,実は新たな理論の理解の可能性を生むということ。そうだ,読解はコピーやインストールではないのだ。オリジナルの読みがあってこその古典なのである。そもそも,古典というものが生き続けるのは,新たな解釈の仕方が次々に生まれる,解釈の豊饒の海がそこに広がるからだ。

 上方歌舞伎では,ただ先代の模写をしただけでは,「お前の工夫がないやないか」と叱責されるそうだ。であれば,読みにも自分の工夫があってよいはず。

 こうした読みには,誤読の危険性をもって批判する面もあろう。しかし,だ。誤読から何かが生まれることもあるのだ。むしろ,誤読を恐れて何もしない,読まないという態度こそ恐れるべきなのだ。

 誤読を恐れず,新たな解釈を生み出そうとする勇気。そのためには,自分の角度を持つことが必要なのだと荻野のテクスト読解は教えてくれた。

 

ブログタイトル変更しました

先ほどまで「週末ソシオロジストの遍歴時代」というタイトルでしたが,

何だか気恥ずかしくなり,タイトルを改めました。

新しいタイトルは,カロッサの『美しき惑いの年』p331の「「現時」と「永遠」の困難な交渉」(手塚富雄)からとりました。

 

取り急ぎ,ご報告まで。

私の関心,研究テーマ

メインのテーマとして,純文学と大衆文学の境界から見る,近代日本における大衆文化とエリート文化の関係を研究している。メインの方は論文で詳しく論じるので,ここでは詳細は割愛(論文は雑誌に受理された時に報告します)。

 

その他,サブのテーマとして,以下の点について考察している。

①政策科学としての歴史社会学:歴史社会学は政策科学たりうるか。その可能性

②宗教者による宗教研究の可能性と限界:ピエール・ブルデューの論を導きの糸として

③社会史・心性史・集合的記憶研究の史料としての文学作品:その史料としての性格,位置づけの検討

 

次回以降,①~③の具体的な内容について書きます。

 

 

 

はじめまして

 ブログ開設から2週間あまり経っての最初の記事で大変申し訳ありません。なんかこう,色々あってこの時期になったのでした。

 

 このブログは,歴史グループに入っていますが,タイトルは「ソシオロジスト」となっています。なぜかというと,私の専攻が「歴史社会学」だからです。学部,院と歴史社会学のゼミに所属しているわけですが,この領域自体がいわゆる境界領域なので,歴史学にも,社会学にもシンパシーを覚えます。そういうこともあり,このようなどっちつかずの状態になったというわけです。

 私個人としては,どちらかと言えば,歴史の方が好きです。本当は歴史学を専攻したかったのですが,周囲の「やめなさい,食べていけないから」との忠告に従い,社会学を選んだのでした。ちなみに,社会学でも食べてはいけません。本当は。

 

 なんとなく選んだので,大学院入学以降,社会学を選択したことを後悔しました。どうにかしてやめられないかと考えたのですが,ここ1か月でその考えが改まり,むしろ社会学が好きになりました。それで,自身の社会学研究の一環,また啓発の意図を兼ねてこのようなブログを開設したというわけです。

 

 歴史を通して,社会を考えてみたい人はもちろん,社会学を学んでいる人,歴史学専攻の人,どちらも関心がない人も,気軽に読んで,できればご意見・ご感想を寄せて頂くと幸いです。どうぞよろしくお願い致します。