日下部晶の記録

勇躍、森を飛び出した日下部の今を克明にとらえるドキュメント。

ほめてやらねば

 叱られて伸びる人もいるかもしれないが,人はやはり褒めることで伸びるのではないか。かくいう私もその一人。褒められたことは終生忘れないのである。

 

 だから,講師として生徒を褒めるのも大事な仕事。褒めにはじまり,褒めに終わるといっても過言ではない。ささいなことでも大げさに褒める。過去分詞覚えていたね,いいね!3単元のsつけられたね,偉いね!

 実際,中2ぐらいだと,ついこの間アルファベットを覚えたような子たちである。3単元のsをつけられるというのは,実に偉いことなのである。それだけ文法力,注意力が身についている証拠なのだから。進度が速い塾はなおさらである。中学生の子が公立中の倍のスピードに追い付くのは相当労力がいる。部活動もしている子も少なくないわけだから,当然だ。だから,できたことには最大限の評価を。これが大前提だと思う。そういう心構えで授業に臨みたい。

思い出の味

「おばあちゃん」のライスカレーはなぜおいしいのだろう。

「おばあちゃん」の煮しめ,かしわ飯,卵焼き・・・・。

 どうしておばあちゃんが作る料理というのはこうもおいしいのか。

「ばあちゃんのカレーおいしいば~い!」と自慢げに言っていた祖母が作るカレーは,まろやかで,何故かおでんにも合う味だった。

そのことを母に伝えると,身もふたもない答えが返ってきた。

 

「そりゃそうよ,高くて良いカレー粉を使っていたからよ」

 

・・・・何だか幻想を打ち砕かれた気がした。

 

 

fictionとnovel

「日下部さんは論文を書くより小説を書いた方が良いですよ。」と後輩の浅野君(仮名)から言われたのは3年前の夏。新宿の屋上ビアホールでのことだった。

 他人からの言葉をすぐに真に受けてしまうのが日下部君の悪癖であって,さっそくfacebookで「小説家宣言」を酔った勢いでしてしまった。翌朝,文面を見て若干後悔したが,当時研究に自信が持てなくなっていたので,小説も書いてみるかと実際に何作か書いてみた。若気の至りとしか言いようがない。

 しかし,小説というものをそこまで好んで読んでいたわけではなかったので,小説についてあまり知らない。早晩行き詰った。以来,小説は書いていない。

 一方で,庄野潤三の「晩年シリーズ」なんかを読むと,これが小説なら書けるかもしれないとも思う。小説は英語でfictionだが,novelともいう。novelとは本来「新しい」という意味なので,物事を新鮮味にあふれた文体で綴れば,それは既に「小説」なのではないか。全くのつくりごとが小説とは限らないのである。

 そのような思いを漠然と抱きながら一日を送っていたが,最近,学部時代の友人永瀬君(仮名)から「また小説書いたら」との言葉をもらった。近々このブログで発表するかもしれない。とはいえ,このブログの趣旨は,あくまで国語力の向上・維持。ほどほどに続けることにする。

 

「さよなら京都」に思う

 栗木京子の歌に,「退屈をかくも素直に愛しゐし日々は還らず さよなら京都」という一首がある。

 

「さらば京都」ではなく,「さよなら京都」というのが印象深いという評もあるし,歌人の山田航は,「京都の大学生ものの小説を随分読んだが,この一首に勝てるものはひとつもない」と評している(本人のtwitterより)。

 

まったく同感だ。「四畳半神話大系」とか「鴨川ホルモー」がこの一首に凝縮されているのである。私も京都の大学生活に随分あこがれを抱いていたので,よくわかる。

 

これが同じ学園都市でも,「さよなら八王子」とか「さよならつくば」はなかなかしっくりこない(どちらも住んでいた)。

 

そもそも,八王子には退屈そのものが皆無である。つくばは,京都以上に退屈な街だが(失礼!),素直に愛するというレベルを超えて,自分自身が退屈そのものと化してしまうきらいがある。退屈を「素直に愛する」とは,退屈を客観視できなければならないのである。その意味で,退屈と程よい距離感を保てている学園都市は日本においては京都しかないのではないか。何がそれを可能にしているのかはわからない。井上俊が言うところの,「無関心にもエゴイズムにも堕すことのない,おだやかなシニシズム」(井上1984:3)から来るのだろうか。

 

 それはともかく,どこに住んでいても,退屈をごまかすことなく,かといって退屈と同一化しない,そういう生き方をしたいものである。

 

引用文献:井上俊編『地域文化の社会学世界思想社1984

 

 

市民社会のイメージ

 政治学をやりたいという時期があって,政治学の教科書を何冊か購入した。その中に,マイケル・ロスキンらが著した"Political Science:an introduction [11th]"がある。できるなら,英語でも政治学を勉強したいという思いから,英語の教科書を探していた時に,図書館でこの本の旧版に出会い,その簡潔かつ平易な文章にひかれ,購入した。

 

 学部生にお勧めしたいのは,できれば英語の教科書を購入し,勉強すること。社会学ならギデンズの"Sociology"(大部だが)だし,各分野でこの種の教科書があるから,英語で勉強してみることをお勧めする。後々大学院入試対策にもつながるし,何といっても,日本語の教科書よりはるかにわかりやすい。英語力の向上にもつながるから是非やって頂きたい。その場合,必ずしも全訳の必要はない。むしろ,全体が理解できているかを確認する方がいいと思う。

 で,私はというと,社会学とも関連の深い政治文化の章を読んだ。その中の「市民社会」という概念紹介の欄はなかなか考えさせられるものがあった。ヘーゲルやバーク,ホッブスといった思想家の定義が冒頭で示されているのだが,実に面白い。日本だと,市民社会というタームは,どうしても「プロ市民」的なイメージが強いかもしれない。そもそも市民という概念からして活動家イメージがぬぐい切れないところがある。

 しかし,本来の市民,あるいは市民社会の概念というのはそうしたものとは様相が異なる。ヘーゲルによれば,それはある種中間団体的な性格を有するし,バークやトクヴィルは,協力や節度を強調している。いずれにせよ,市民社会は,行き過ぎた権力を抑制する概念であり,かつ全体社会に秩序と安定をもたらす「装置」なのである。

 

 にもかかわらず,日本人が抱く「市民社会」イメージが一面的な見方から構成されがちなのは,なぜなのだろう。ここまでくると文明論的な考察が必要になり,既に私の手に負えないところまで来るのだが,今後の日本社会の健全な発展には欠かせない考察だと思う。

 

予習

 私が高校生の頃,ある国語の先生がこう言った。

 「最近忙しくて予習が追い付かないのよ」

 その頃の私にとって,それは信じられない言葉だった。「多めに予習をしなさい」と生徒たち言っておいて,自分はろくに予習ができていないじゃないか,と。

 

 あれから10年以上経って,その国語の先生の気持ちがよくわかるようになった。授業の予習,とくに教師にとっての予習は簡単ではない。やればやるほど,気になる箇所が出てくる。正直言ってきりがない。調べるだけならまだしも,それをどう授業に組み込むか,生徒にどう伝えるか。ここまで考えると予習にかける時間は必然と長くならざるを得ない。しかも,授業は1コマだけではなく,何コマもある。他の業務もある。予習が追いつかないという嘆きは出て当然なのである。

 

 あの頃の自分はそのようなことを知る由もなかった。学習塾の講師を経験してはじめてその先生の苦労がわかった。私は思う,その嘆きを終生忘れないでおこう,と。嘆きは苦悩から生まれる。その苦悩は,真摯に取り組んでいる証拠だからである。その先生にとっては一瞬の出来事ではあっただろうが,私の胸に今も印象に残っているし,これからも,あの「嘆き」が自分を支えるのだろうと思っている。

 

 

 

 

書くということ

   良質な日本語を書くための最大のトレーニングは,やはり実際に日本語を書くことしかないのだろう。そう思って,この文章を作成している。文章は日々書き続けなければ上達しない。かといって,論文をそんなに毎日書けるかというとそれは難しい。まず,書く材料がなければならず,またそれは分析済みでなければならない。論文執筆のマニュアルには,「毎日書け」と書いてあるのだが,それでも,書けてせいぜい1節。これでは,文章の練習になるまい。そこで,論文以外の文章を日々綴っていくことにした。それは,小説かもしれないし,随想かもしれない。ともかく,書くことで国語力の維持・向上を目指そう,というわけである。今は,ブログという個人にとって最大の媒体がある。これを享受しないわけにはいかない。はてなブログを(極力)毎日更新したい。

    思えば,子どもの頃から書くことが好きだった。小学校2年生まではそうでもなかったのだが,3年生の夏休みに書いた読書感想文が,「全国才能開発コンテスト」なる賞の佳作に選ばれたことがきっかけで,書くことが好きになった。それでも,あの頃は今よりも書くことへの意識が希薄だったから,そんなに多くの作文コンクールに応募したわけではない。あの頃,作文コンクールにもっと応募していれば,「作文コンクール荒らし」として少しは名も知れた存在になっていたかもしれないし,今の文章力もこんなものではなかったであろう。後悔の念に堪えない。

    それならば,今書けばよいのだ。今からでも遅くない。そう思い,私はパソコンの画面に向かっている。