「現時」と「過去」との困難な交渉ーとある社会学徒の小部屋ー

関東の某国立大学の大学院で社会学を専攻。歴史をベースに教育,文学について研究。政治にも関心。

「読み」のオリジナル,オリジナルの「読み」

 社会学への熱意がよみがえって,はや3か月。無事に研究会報告を終え,また読書と思索(という名の妄想)の日々を開始した。
 面白いことに,3年前,モノクロームに見えたテクストが,何だか極彩色をまとって現れ出たような気分である。今日は荻野昌弘という有名な社会学者の文章を読んでいた。「身体の記憶」というテーマで,本ブログに「社会学的文学誌」を載せるためである。

 3年前と比べ,荻野の言っていることがはっきりとわかるようになった。これまでの蓄積もあるのだろうが,やはり,社会学への姿勢が主体的になったというのもあろう。

 それ以上に,テクスト(とりわけ社会学の名著)への姿勢というか,読み方。これも大いに触発を受けた。

 それは,読みに独自の角度を持つこと。荻野は身体論をテーマに分析を進める学者であるけども,デュルケームウェーバーを,やはり身体という側面から読んでいた。その結果,対比して捉えられる両者が,実は身体を通して社会を説明・記述しようとしたことがわかったのだ。

 ここで,重要なことは,独自の読みの角度を持つことが,実は新たな理論の理解の可能性を生むということ。そうだ,読解はコピーやインストールではないのだ。オリジナルの読みがあってこその古典なのである。そもそも,古典というものが生き続けるのは,新たな解釈の仕方が次々に生まれる,解釈の豊饒の海がそこに広がるからだ。

 上方歌舞伎では,ただ先代の模写をしただけでは,「お前の工夫がないやないか」と叱責されるそうだ。であれば,読みにも自分の工夫があってよいはず。

 こうした読みには,誤読の危険性をもって批判する面もあろう。しかし,だ。誤読から何かが生まれることもあるのだ。むしろ,誤読を恐れて何もしない,読まないという態度こそ恐れるべきなのだ。

 誤読を恐れず,新たな解釈を生み出そうとする勇気。そのためには,自分の角度を持つことが必要なのだと荻野のテクスト読解は教えてくれた。