庭園文化史と知識の社会史の記録

庭園文化史と知識の社会史に関しての考察を綴ります。

市民社会のイメージ

 政治学をやりたいという時期があって,政治学の教科書を何冊か購入した。その中に,マイケル・ロスキンらが著した"Political Science:an introduction [11th]"がある。できるなら,英語でも政治学を勉強したいという思いから,英語の教科書を探していた時に,図書館でこの本の旧版に出会い,その簡潔かつ平易な文章にひかれ,購入した。

 

 学部生にお勧めしたいのは,できれば英語の教科書を購入し,勉強すること。社会学ならギデンズの"Sociology"(大部だが)だし,各分野でこの種の教科書があるから,英語で勉強してみることをお勧めする。後々大学院入試対策にもつながるし,何といっても,日本語の教科書よりはるかにわかりやすい。英語力の向上にもつながるから是非やって頂きたい。その場合,必ずしも全訳の必要はない。むしろ,全体が理解できているかを確認する方がいいと思う。

 で,私はというと,社会学とも関連の深い政治文化の章を読んだ。その中の「市民社会」という概念紹介の欄はなかなか考えさせられるものがあった。ヘーゲルやバーク,ホッブスといった思想家の定義が冒頭で示されているのだが,実に面白い。日本だと,市民社会というタームは,どうしても「プロ市民」的なイメージが強いかもしれない。そもそも市民という概念からして活動家イメージがぬぐい切れないところがある。

 しかし,本来の市民,あるいは市民社会の概念というのはそうしたものとは様相が異なる。ヘーゲルによれば,それはある種中間団体的な性格を有するし,バークやトクヴィルは,協力や節度を強調している。いずれにせよ,市民社会は,行き過ぎた権力を抑制する概念であり,かつ全体社会に秩序と安定をもたらす「装置」なのである。

 

 にもかかわらず,日本人が抱く「市民社会」イメージが一面的な見方から構成されがちなのは,なぜなのだろう。ここまでくると文明論的な考察が必要になり,既に私の手に負えないところまで来るのだが,今後の日本社会の健全な発展には欠かせない考察だと思う。