庭園文化史と知識の社会史の記録

庭園文化史と知識の社会史に関しての考察を綴ります。

「さよなら京都」に思う

 栗木京子の歌に,「退屈をかくも素直に愛しゐし日々は還らず さよなら京都」という一首がある。

 

「さらば京都」ではなく,「さよなら京都」というのが印象深いという評もあるし,歌人の山田航は,「京都の大学生ものの小説を随分読んだが,この一首に勝てるものはひとつもない」と評している(本人のtwitterより)。

 

まったく同感だ。「四畳半神話大系」とか「鴨川ホルモー」がこの一首に凝縮されているのである。私も京都の大学生活に随分あこがれを抱いていたので,よくわかる。

 

これが同じ学園都市でも,「さよなら八王子」とか「さよならつくば」はなかなかしっくりこない(どちらも住んでいた)。

 

そもそも,八王子には退屈そのものが皆無である。つくばは,京都以上に退屈な街だが(失礼!),素直に愛するというレベルを超えて,自分自身が退屈そのものと化してしまうきらいがある。退屈を「素直に愛する」とは,退屈を客観視できなければならないのである。その意味で,退屈と程よい距離感を保てている学園都市は日本においては京都しかないのではないか。何がそれを可能にしているのかはわからない。井上俊が言うところの,「無関心にもエゴイズムにも堕すことのない,おだやかなシニシズム」(井上1984:3)から来るのだろうか。

 

 それはともかく,どこに住んでいても,退屈をごまかすことなく,かといって退屈と同一化しない,そういう生き方をしたいものである。

 

引用文献:井上俊編『地域文化の社会学世界思想社1984